私はプラダを着ないけれど。
The Devil Wears Prada

突然ですが、皆さんは「プラダを着た悪魔」という映画を観たことがありますか?2003年に出版された小説が大ヒットし、その3年後に映画化されました。メリル・ストリープやアン・ハサウェイなど実力派のハリウッド女優たちが出演し、全米No.1雑誌編集社「ランウェイ」で繰り広げられるヒューマンドラマです。この映画が出たのは今から20年前で、当時ファッション業界の第一線を貫いていた雑誌「VOGUE」の編集長アナ・ウィンターが、メリル・ストリープ演じるランウェイ編集長のミランダ・プレスリーのモデルとなっています。
アナ・ウィンター自身も実際に2009年に公開された「The September Issue」というドキュメンタリー映画に出ています。ファッション雑誌の中で最も重要とされる「9月号」の編集・出版までの彼女に密着したもので、映画の中の世界と、実際の編集社での出来事がさほど変わらないくらいドラマティックな世界である様子がわかります。
この映画が公開された当時、私はカナダで服飾デザイン大学に通う学生で、名だたるデザイナーのクチュールやメゾンの歴史、デザインの基礎や応用、ファッションビジネスにおける販売戦略、イラストレーターやフォトショップを用いたデザイン画の制作など、ファッションに始まりファッションに終わる生活をしていました。ありとあらゆる雑誌をくまなく読み漁り、ローカルのショップを訪れてはそこのバイヤーやデザイナーにインタビューを申し込み、週末は流行りのアパレルショップでアルバイトをする日々でした。好きなデザイナーもいたし、着てみたい服もたくさんあったし、どんな服に身を纏うかで自分の付加価値をつけることに夢中でした。
そんな「キラキラ輝く」ファッション業界に想いを馳せる学生にとって「プラダを着た悪魔」はまさにバイブル的存在で、「私もいつか仕事でミラノに行って、プラダ本店で買い物をするんだ!」という憧れを抱いたのです。
変わり果てた20年後のファッション業界

さて、時は流れ20年後、2026年5月1日「プラダを着た悪魔2」が世界で同時公開されました。
この20年の間、私は様々な角度からファッションに向き合ってきましたが、予期せぬことばかりが起こる人生の中でこの業界へ抱く思いも年々変化していきました。世界中のVOGUEを集めていた頃から、気づけば「雑誌」という存在さえ取り入れない生活。当時抱いていた「憧れ」という感情は「無関心」(自分の所有するものに関しては)という感情にすら変わっていました。20年間で自分の中で起きたファッションに対する感情の変化が、もしかしたらこの映画に描写されているのではないか、、、そんな気持ちで、気づけば公開初日に映画館へ足を運んでいました。
ネタバレはしませんが、ファッション好きでも、そうでなくても、観に行く事をお勧めします。
雑誌を1ページずつめくり、載っている服のディテールをくまなくチェックし、切り取ってブレインストームしていた時代から、現在は業績のほとんどを雑誌媒体ではないデジタル商材に転換し、ロケーション撮影をAIで作り上げ、モデルすら人間なのかそうでないのか区別がつかない状態にあります。
デザイナーたちが作り上げる作品が賞賛され、大女優が頭のてっぺんからつま先までクチュールに身を包み、それが着用後美術品としてミュージアムに展示された時代から、ファストファッションですらカスタムデザインできるようになり、田舎の主婦が3000ドルのブランドバッグを持ってスーパーに買い出しに行く時代へと変わりました。
そういえば20年前は、「ファストファッション」という言葉すら、あまり馴染みがありませんでした。オンラインストアで細かい繊維の質までズームしてみることもできず、雑誌の写真を見てどんな素材なのかを想像して、自分が持つ繊維の知識を駆使して答えを生み出していたのを思い出します。
ホンモノを見抜く力

2作目の「プラダを着た悪魔」もとても素晴らしかった(&面白くて何度も声を出して笑った)ことは言うまでもないのですが、見終わった後、モヤモヤが残りました。地球滅亡系の映画と同じように、映画の中では問題が解決するのですが、実際今自分が生きる世界では似たような問題が起きた時、解決策がないと分かっているからです。
映画は相変わらずキラキラとしたファッション業界で完結しても、実際は過去20年間に生産・破棄された衣類がまだ全て世界中の埋立地に残っていることや、今地球上にある服の数だけでもこの先数百年間の全ての人類に着せるほどの量があること、ファッション業界がもたらす環境汚染が半永久的に環境にダメージを与えてしまった事実も、何一つ変えることはできないのです。
何もかも早送りされた時代の中で、低価格な投資と莫大な利益を優先した結果が招いたものです。
カール・ラガーフェルド、ヴィヴィアン・ウェストウッド、ジョルジオ・アルマーニ、ヴァレンティーノ・ガラヴァニ - 現代のファッションの土台を作り上げたようなレジェンドと呼ばれる人たちも、80代、90代になり少しずつこの世界から去っていきます。
それは、繊維1本1本の質、たったひとつの縫い目の違い、マシン製造では作れない本来の人間の体に沿った緩やかなカーブ、着る人を想う想像性、その全てを語るストーリーライン - これらを伝えられる人々が失われていくということです。「人」の時間が費やされた、テクノロジーには到底真似できない本質的な芸術性や人間味は、私たちの目の前から静かにその光を消していっています。
自分が取り入れたい情報だけが入り、それが全て手元のスクロールだけで手に入る時代。情報源や見ている画像が本物かAIかも区別がつかない時代。雑誌のページをめくっていたころから、ここまでになるのはあっという間でした。そしてこの先の急激な変化もきっと想像を超えてくるでしょう。
本質と直感だけが、残る世界

1作目のプラダを着た悪魔を観て、ファッション業界への憧れがより一層強まった私は、後に大学を卒業して就職した先で、実際に春コレクションでパリに、冬コレクションでミラノに行きました。ミラノでは念願だったプラダの本店に足を踏み入れ、自分を鼓舞する戦利品を購入したのです。
しかし「学生」と言う守られた環境から出て、リアル社会で生き抜いていくうちに、私の中のキラキラは不信や不満に代わりって行きます。お給料を削り借金をして高価な服を着る同僚や、バッグや靴の値段やシーズンで人の価値を決める上司、無垢な取引先のバイヤーに原価の何倍もの価値を押し付け金銭的・精神的プレッシャーを負わせてまで取引完了に持っていく仕事に、嫌悪感を抱くようになりました。
腐りかけた自分のマインドを浄化する思いで、サスティナブルファッションに転職し、そこから究極まで自分に必要なもの以外を削り落としたところで、私は今の自分のコア部分である「ゼロウェイスト」に辿り着いたのです。思えばこれが私の本質であり、直感に従った結果でした。
「必要なもの」と「欲しいもの」は違う。頭では分かっていても、世の中のマーケティングは優れすぎていてこの2つにはっきりとした境界線を引くことは難しいです。ファッションももちろんその大きな一部で、「自分に合うもの」と「他人に見られたい自分」の境界線も曖昧です。
円滑で効率の良いAIが的確な文章を書いてくれる中で、私は今こうして自分の頭と手で、文章をキーボードに打ち込んでいます。minimal.のSNSコンテンツも、私たち自身の言葉や伝え方で、本当に届いてほしい人にだけ届けばいいと思うのです。服を買うときは、生地に触れてから買いたいし、どう作られてきたかを知りたい。口にする食材や、暮らす環境も、騙し騙しなものではなく心の底から良いと思えるものに囲まれたいのです。
よく「正直者が馬鹿を見る」と言いますが、手に取れる「製品」に関しては正直になれないようなら、それは偽物も同然です。前も後ろも包み隠さず、自信を持ってスポットライトを当てられないのなら、それは本当に良いものとは言えません。【必須性・自分軸・正直度】これを持ち合わせることでリアルがリアルじゃない時代に本質的なものを見出せる唯一の策なのではと思います。
私はプラダを着ないけれど、、、

余談ですが、ミラノの本店で購入したプラダのカードケースは、まだ持っています。minimal.では名刺がないので、今は第一線を退き仕舞われていますが、たまに出してみる時があります。ファッション業界はキラキラした世界ではなかったし、私たちはこれから生きていく上でとてつもなく難しい課題に向き合わざるを得ないけれど、20年前の自分が感じていた「希望」は確かなもので、その時の感情は今の私の背中も押してくれるのです。
私はこの先も、プラダを着ることはないし、シャネルもエルメスも自分の欲しいものリストには載らない。けれでもレジェンドたちが築き上げた服飾の歴史と芸術への尊敬は消えないし、それらの価値を軽視することもありません。そして、「ひと」や「もの」の根底にある本質、直感、本来の美しさを、時間をかけて見出せる大人でありたいと思っています。
この真っ赤なカードケースのように、時に情熱的に。